ボストン生活 - 続編①
ご無沙汰しております。話のまとまりが悪いクロワッサンでございます。
ボストンのネタを書き過ぎますとすぐ、底をつきますので(屁理屈でございます)、縁もゆかりも繋がりもない事を3章に分けてお話させてください。
1章: ピカピカの高校生の巻
2章: トラちゃんの巻3章: ワールドカップの巻
1章: ピカピカの高校生の巻
システム生理学の研究室では、研究活動の他、ボランティア活動も重要と考えています。
今回は活動の一環としてBeaver
Works Summer Institute[1]という全米から選抜された優秀な100人弱の高校3年生が集うSTEM
(Science, Technology, Engineering, and Mathematics) 、すなわち、科学・技術・工学・数学の教育分野プログラムのMIT合宿で1時間の講義をさせていただく機会をいただきました。
Beaver
Works Summer Instituteとは、MIT Lincoln Laboratory[2] とMIT School of Engineering の協同インキュベーターとして派生し、研究とイノベーションの他、より優れた学生を育むことを目的としています。授業は受動的ではなく、医科歯科で良く耳にするactive learningを基本として、ワークショップやグループワークを重視している教育プログラムであります。我が大学のHsLPに類似している(でもHsLPの方が上⁉)と思いますが、MIT的な要素として、最終週には、初期段階で決めた「product」を何かしらの形で完成させなければなりません。
選抜された学生は、8の領域のうち一つに入り、1カ月間、集中的に研修を受けます。
選抜に至るまでのタイムライン。12月に登録、1-2月からはオンライン講義を受け、
出願後に選抜された学生のみが7月から一月間、合宿に参加することができます。
完成したプロジェクト例として、自動空中運転をしたクワドローターでのレーシング[3]や、既存しているものより優れた自動Cognitive
Assistantの開発[4]などが挙げられます。今年からは、Medlytics[5]という臨床データベースを用いビッグデータ解析、人工知能・機械学習を応用してみる講義が設置され、無論、本研究室の先生方が講義内容のお手伝いを行い、登壇もお願いされたそうです。その中で、Celi教授のご配慮により(おそらく色々な経験をさせてくださろうというお考えから)まだ学生である私が、登壇させていただきました。自分の生い立ちや、医学部にたどり着いた経緯、この研究室に入った理由、そしてどのような研究を行っているか、将来的なビジョンについても話をし、質疑応答をも含め、人生初、1時間も登壇しました。高校生とは言え、なんせ相手は全米トップの学生なので、質疑応答ではとんでもない質問をしてくるのではないかと内心冷や冷やしておりましたが、空気を読む学生たちで、答えやすい質問で一安心しました。しかし、登壇を終了するや否や彼らのプロジェクトに関する質問が殺到しました。興味を示し、頑張る学生はどんなレベルでも可愛いですね。きっとあっという間に追い抜かれます(笑)。
Beaver Worksの学生たちとCeli先生
第2章: トラちゃんの巻
私は大学卒業までアメリカ育ちであり、そのため知り合いが米国のあちらこちらにいます。7月は大学時代、一番の仲良しであったトラの誕生日だったので、NYまで会いに旅をしてきました。NYまではレンタカーでも行けますし、Chinatown Busで1000円以下でも行けます。お金持ちは飛行機で1時間半、もしくはヘリで1時間弱(らしい)かければ、早く行くことも可能です。
私は、もちろん、貧乏学生なのでChinatown Busで行きました。行きのバスは空いておりましたが、とてつもなく渋滞していたため、走行が可能になると遅れを取り戻そうと尋常じゃないスピードで走り始め、椅子ごと取り外されるかと思うぐらい揺れました。しかも、Bronx内の駅に止まることを前提に選んだバスは、超高速で飛ばしまくり、南マンハッタンまで行ってしまい、そこで何事もなかったかのように降ろされました。 ようやく到着した頃には、なんと夜中の12時をまわっており、トラが住むBronxに向かうため、Dラインという地下鉄に乗り、1時間かけて205ストリートまで行きました(以下地図参照)。ご存知か分かりませんが、夜中のNY、特にBronxは普通に恐いと言われているところです。さすがの私でも、多少緊張しておりました(笑)。北に上れば上るほど見事に黒人且つBKサイズを着ている人の数が増えていくのには衝撃を受けました。教訓です。とりあえず、真似はしないでください(笑)。トラは駅まで迎えに来てくれ、そこから歩いて一緒に帰りました。日中は全然普通で、全く危なくない場所です。Montefiore病院も隣接しており、おしゃれな雰囲気を出している場所でもあります。距離としては、小金井から御茶ノ水に通学している感覚です。
チャイナタウンバス到着駅からトラ宅までの地下鉄路
トラはGun Hill
Housingという、公営住宅で祖父母に育てられ、貧困から這い上がった凄いやつです。とても明るく、誰とでもすぐ仲良くなれ、優秀でもあるので、そのような生い立ちだとは誰も分からないと思いますが、とてつもなく苦労をしてきてます。毎回会うたびに刺激になる上、自分の甘さに情けなくなり、そしてエネルギーをいっぱいもらって活かさせてもらっています(つもり笑)。
Gun Hill 公営住宅
そんな彼は、大学では心理学を専攻していたのにも関わらず、卒業2年後にはウォール街で働き始め、頭角を現し、現在はRockefellerビルの高層階で働いています。あのビル内で、Bronx出身はトラが唯一だと思います。
容易にマンハッタンの中心に住めるお給料をもらっていますが、家族・親戚をサポートしつつ(お母様に新車をプレゼントして自分は古い車。せっかくの休養が取れる週末もおいと遊んであげたり、おばあ様の家事や買い物の手伝いをしたりと家族・親戚孝行に励んでいます)、自分の夢である「武道+レストラン」を融合したフランチャイズを実現する為、家賃の安めの所で、おばあ様の家にすぐ行けるところに住んでいます。
彼の誕生会にも呼んでもらいましたが、離婚している両親も来てい て、バラバラであるはずなのに、周りで食事をしていたどの家族よ りも仲が良く、明るく、だから今の彼がいるのかなと感じる感動的 な幸せな時間でした。とても羨ましい気持ちにもなった反面、心の底から、トラを誇りに思え、本当に彼のために嬉しい気持ちになりました。なんと言っても、彼の成功は、誰かに援助してもらったわけではなく、彼の努力と決断の積み重ねの賜物です。完全たる「さよなら大逆転勝利」。「Against all odds」で、彼は勝者となり、家族のみならず、社会にも貢献し始めています。そんな凄い親友がいて幸せですが、私はいったい何をしているのだろうか、と色々と考えさせられた週末でした。
トラ宅からGun Hill
Housingまで。
彼のおばあ様は未だにGun Hill Housingに住んでおり、買い物など手伝いに行きやすい場所を選んだそうです。
(左)Rockefellerビル (右)トラのオフィスからの眺め
トラ
トラは、独立記念日である7月4日は、彼の幼馴染が警備員をやっているとのことで独立記念日パレードを最前列で見れたり、「Hugo
Boss」で店員として働いているおじさんに会いに行くことで安価でブランドスーツ(時にはシャンパンも出してもらえるそうです(笑))も手に入れられたりする素晴らしいネットワークも持っています。社会的及び経済的地位が高い人とのつながりが大事と良く言われますが、層別化をして考えるのであるならば、最大限に活かせるのは、全層を経験し、誰とでも共感できる能力を持っている彼のような人ではないのかと思います。本当の優秀さとはsocial capital richでありながら、専門性を持ち、誰からも一目置かれ、謙虚で他人思いであり、共感能力が抜群な人材なのではないでしょうか。まさに、それを目の当たりにし、その成長を共に経験できたとてつもない自分の運に感謝しています。
眩しいぞトラ。本当に良かったな。
3章: ワールドカップの巻
そうです!クロワッサンと言えばフランスです!2018ワールドカップは最高過ぎました。
まさかのまさかで両親と祖母が遊びに来た週末とフランスの決勝戦が重なったのです!父も私も前日から大騒ぎで、ホテルの部屋はフランス化し流れるテレビはフランスのサッカーばかりです。母や祖母はうんざりしていたと思います。
ホテル
当日、決勝戦はボストン時間の午前11時開始です。早朝から私はいったん自転車で家に戻り、家族はホテルをチェックアウトしてアパートまで迎えに来てくれ、いざ出陣です。8時45分には、前から調べておいたスポーツバー前で並んでいました。ただ、並んでいたところはあまり混まないのにその隣のスポーツバーは窓にWorld Cupと大々的に書いてあり、そちらは列がどんどん長くなっていきました。念のために私だけそちらに並び、結局、9時半前には、家族が移ってきて、辛抱強くドアが開くのをひたすら待ちました。その間にどこの席が良いか周りの人に聞きまくり、2階が良いことがわかりました。もちろん、父と私は、フランスのユニホームを着て、ドアが開くや否や、2階のテレビのど真ん前の席まで人を押しのけて走りあがりました。母もこういうときは負けていません。気が付けば隣に陣取っていました。その後は、友人の家族も加わり、私と父は立ち上がり、大声でフランスの国歌を歌い、ゴールするたびにフランスの国旗を広げ、叫びまくりました。あまりに目立ったらしく、父はBostonの有名新聞からインタビューを受けたくらいです。後で分かったことですが、ボストンにはクロアチア人の大きなコミュニティーがあり、このバーの3分の2以上はクロアチアを応援していたそうです。そんな敵陣にいたとはつゆ知らず、大騒ぎをしていました。皆フランスを応援していると思っていたので途中でクロアチアにゴールが入った時に大喜びをする人が多数いたので、びっくりしました。それならもっと応援だ、と力がより入りました!最後まで手抜きせず叫び飛び選手と共に戦い抜きました。最後には、敵チームを応援していた人たちも握手をしてきてくれて、お互いの健闘をただえました。
家族と親戚
前回の勝利は1998年だったため、「親が喜んでいた」という程度で、あまり記憶はありませんでしたが、今回は初めて家族としっかり観戦することができ、全員そろって和気あいあいと、応援しながら勝利まで見届けられ、一生の思い出になりました。
フランス万歳!日本万歳!ボストン最高!
[1]
https://beaverworks.ll.mit.edu/CMS/bw/bwsi-info
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